平岡公彦のボードレール翻訳日記アーカイブ

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野崎歓訳のなにが問題だったのか

 野崎歓訳を批判した立命館大学下川茂先生による書評は日本スタンダール研究会のホームページ(http://www.geocities.jp/info_sjes/)で公開されている同会会報18号のPDFファイルで全文を読むことができます。

 しかし、同ホームページのアクセス数がこの騒ぎ以降大幅に増えたということはないようなので、この問題は実際のところそれほど注目を集めているわけでもないのかもしれません。

 冒頭の「訳し忘れ」を指摘した部分を紹介しましょう。


 「訳し忘れ」から始めよう。フランス語原文は野崎が典拠とした新プレイアード版を使い( )内に頁数を記す。
1.上109頁(原文にある改行もない)
Enfin, comme le dernier coup de 10 heures retentissait encore (397)
2.上125頁
j’ai l’honneur de vous prévenir que je serai absent quelques heures
(404)
3.上215頁
Je n’ai jamais manqué au devoir pascal, même en 93 d’exécrble mémoire(448)
4.上219頁
Fuyez-moi, dit-elle un jour à Julien ; au nom de Dieu, quittez cette maison : c’est votre présence ici qui tue mon fils (450)
5.上290頁
Par hasard ici, ce n’est pas encore l’homme de cœur qui souffle (482)
6.下84頁
Dès qu’il cessait de travailler, il était en proie à un ennui mortel; c’est l’effet desséchant de la politesse admirable, mais si mesurée, si parfaitement graduée suivant les positions, qui distingue la haute société. Un cœur un peu sensible voit l’artifice(587)
以上はかなり長い欠落である。短いものはまだ何箇所もある。例えば下巻123頁の「嫉妬を覚えたらしく、不機嫌になってしまった」は「まるで嫉妬するかのような様子を見せ、だんだん不機嫌になってゆくのを、ジュリアンは見のがさなかった」(中央公論社世界の文学の冨永明夫訳)が正しく、「ジュリアンは見のがさなかったJulien remarqua(604)」が欠落している。下192頁の「冗談に対して、お説教で返すなんて」も、「冗談の返事にお説教をなさるなんて、よほどお加減が悪いに違いないわ」(冨永訳)が正しく、「よほどお加減が悪いに違いないわIl faut que vous soyez bien mal (633)」が欠落している。「訳業に多くを教えていただいた」(下巻「訳者あとがき」)という既訳にこれらの欠落は存在しない。訳稿と原文の突合せ作業はおろか既訳の参照も野崎は十分にしていないのではないか。
(下川茂「『赤と黒』新訳について」『スタンダール研究会会報18号』 2008年5月 pp.14-15)


 ごらんのとおり、単語をいくつか訳し忘れたという程度のミスではないことは明白です。

 百歩譲って下川先生の誤訳の指摘については議論の余地を認めたとしても、これほどの訳文の欠落については擁護のしようがありません。

 常識的に考えて、あらたに発表された翻訳が既存の翻訳よりも誤訳が多くなるということは本来ありえないはずなのですが、下川先生の指摘によれば野崎訳の誤訳は数百箇所にも上るということです。

 指摘を受けた誤訳のいくつかはこれまでの慣行のとおり増刷分で訂正されるだろうと思いますが、数百箇所の欠陥を通常の増刷分で補填することは不適切であるように思います。

 それでも光文社側が誤訳を認めていない以上、残念ながらこの本も、『ちいさな王子』と同じように、今後もなにごともなかったように販売され続けるでしょう。