平岡公彦のボードレール翻訳日記アーカイブ

Yahoo!ブログのサービス終了により、旧ブログの記事をこちらに保存することになりました。

闇――highfashionparalyze 1st single

 highfashionparalyze結成の日から心待ちにしていた1st singlespoiled/蟻は血が重要である/形の無い 何よりも 愛したのは お前だけがをようやく入手することができた。その悦びに震えつつ、感じるままに感想を書きとめておきたい。
 
 闇が光の欠如であるというのは迷信である。闇とは、殊に人間精神の闇とは、その器官なき身体の開花を待つ豊穣な潜勢力の地帯を指し示す徴である。人は反抗する犬を怖れることはないだろう。人を真に畏怖させるのは享楽する闇である。未知の享楽を狂気と区別することはむずかしい。そしてそのような享楽だけがポエジーと呼ばれるに値する。この決して飼い馴らすことのできない無尽蔵の闇にこそ、人は戦慄するのだ。
 
 価値あるものはすべてこの闇から生まれる。みずからの、みずからの本質にのみ由来する法則を享楽しつつ生成する闇。この血の通った闇は、蟻が巣を掘るように私の器官なき身体を侵食し、新たな血管を張りめぐらせ、歪な器官を形成する。この新たな器官は舌であり、触角であり、性器である。いまや私の身体の一部となったこの新たな器官をめぐる血のもたらす比類なき恍惚。この闇を享受しうる者は幸いである。
 
 質の享楽。思えばmerrygoroundとSmellsがそうであったように、hfpもまた、轟音とスピードとシャウトのインフレを過激さと勘違いしているような陳腐なロックとは限りなく隔たった地点にいる。そこには神経質なまでに繊細な声と音の配置と、カオスと境を接した危ういバランスと、そしてなにより、聴く者を虜にする艶がある。
 
 hfpのアンセムと呼ぶべき「蟻は血が重要である」kazumaは咆哮する。しかしおそらくその叫びは、一見そう見えるような怒りでも悲しみでもなく、憎悪でも絶望でもない。そのような安易な翻訳はあらかじめ拒まれている。それは言葉や感情に翻訳されればこぼれ落ちてしまう純粋なポエジーの産声にほかならない。それはドゥルーズの言う、みずからを享楽する生成の志向性なき攻撃性である。


 器官は彼の肉に打ちこまれる釘、数々の拷問に等しい。もろもろの〈器官機械〉にむけて、器官なき身体はすべすべした不透明な、はりつめた自分の表面をこれらの器官機械に対抗させる。結びつけられ、接続され、また切断されるもろもろの流れに、器官なき身体は、自分の未分化な不定形の流体を対抗させる。音声学的に明瞭なことばに、器官なき身体は、分節されない音のブロックに等しい息吹や叫びを対抗させる。
(G・ドゥルーズ/F・ガタリ『アンチ・オイディプス(上)』宇野邦一訳,河出文庫,2006年,p.28)


 その純潔ゆえに、比類なき肯定はあらゆるものを拒絶する。そしてその純潔ゆえに、その享楽は最も純粋な強度の形にギリギリまで近づいていく。


 最高度において体験される独身状態の悲惨と栄光、つまり生と死の間に宙づりになった叫び声、強度の移動の感覚、形象も形式もはぎとられた純粋で生々しい強度の状態。ひとは、しばしば幻覚と錯乱について語る。ところが幻覚の所与(私は見る、私は聞く)と錯乱の所与(私は考える…)は、より一層深い次元の〈私は感ずる〉ということを前提とし、まさにそれが幻覚に対象を与え、思考の錯乱に内容を与えるのである。
(同書,p.44)


 Smellsまでの楽曲が〈幻覚と錯乱〉を表現していたとすれば、hfpの楽曲は、まさにこの〈私は感ずる〉という次元を暴きだそうとしていると言えるだろう。この幻覚と錯乱の質料、このロゴスなきポエジーを、多くの人は狂気と呼んで眉を顰めるにちがいない。だが、この狂気に魅せられた者にとっては、それは新たな約束を予感させる希望でさえある。まだこれほどの自由が、これほどの解放が、これほどの芸術が可能なのだ。
 
 ゆえに私たちはこの比類なき実験の彼方までついていこう。至高のポエジーを知りたければ、highfashionparalyzeを聴きたまえ。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村